わーくすてーしょんのあるくらし (3)
1998-03 大橋克洋
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今月は、ちょっと産婦人科医のグチから始まります。 現代の社会では「お産は100%安全」と思われているようで す。万一お産の結果が悪ければ、必ず「医療側に落ち度があったに 違いない」ということで、医事紛争を覚悟せねばなりません。産科 医には99%ではなく100%の安全性を求められているのです。 これは「かなり厳しい」というより「不可能なこと」です。「神 のワザを望まれるわりには、紙ほどの尊敬もありません」なぞとシ ヤレている場合ではありませんが。
タンポポの種子も魚の卵も膨大な数産出されますが、最後まで生 き残って大人になるのはごく僅かです。本来、生物の一生において 生殖の時期は、親にとっても子供にとっても極めてリスクの高い時 期です。産科医がこれを90%以上安全に近づけたことを評価して 欲しいのに100%は酷でしょう、と思います。 自然界の仕組みはとてもうまくできていますから、本来もっと歩 留りの良いことを行えるはずです、、、「にもかかわらず、とても 無駄なことをやっているのはなぜだろうか」という素朴な疑問があ る日浮かびました。
私の一生のライフワークに、「電子カルテ」開発とともに「自然 界のムダの意味を考えること」を加えることにしました。大変面白 そうなテーマです。
ソフトウエアに関して日米の意識の差はとても大きく、今後もコ ンピュータ分野における日米格差が縮まることは当分ないだろうと 考えています。これは色々な面から言えることですが、本日のテー マ「ムダの意味」に引っかけて考えてみます。 日本のソフトウエア屋さんは国民性を反映し、カッチリしたもの を作ろうとします。それにはとても大変な労力と資金を費やすもの ですが、よく考えた割りには実際の現場に持ってきてみるととても 使いにくかったり、まったく融通がきかなかったりします。ソフト という割りには頭がハードだったりします。
ところが米国のは違います「ユーザごとに考えることも要求も違 うのが当然」という考えで作られていますから、とても使いやすく ユーザの好みに応じ自由にカスタマイズできるものも多いです。教 育程度の差があっても同じように使えるよう、わかりやすいマニュ アルが完備されています。これがソフトというものでしょう。
アセンブラー(機械語)を使って書いたプログラムは大変効率が 良くコンパクトですが、後で修正しようとすると大変です。書いた 本人もどこがどうなっていたかわからなくなってしまいます。 これに対し、いわゆる高級言語やスクリプトのようなもので書い たプログラムは、かなり冗長度が高くスピードも上がらなかったり しますが、後のメンテはとても楽になりますし、拡張性の高いもの を作ることができます。
このような意味での冗長度は「必要なムダ」と言えましょう。 国産 OSとして歴史のある TRON を使う機会がありました。画面 デザインはちょっと私の好みではないのですが、使い勝手はなかな か良いのが気に入りました。DOS/V 機で動くので、東芝のリブレッ トに載せてみました。軽い OS なので特にモーバイル・コンピュー テイングには大変お勧めというのが印象です。唯一の(そして、わ たしにとっては致命的な)難点は、今となってはクラシックもよい ところのアセンブラー的な開発環境しかないことでした。
「欲しいものは自分で作ってしまえ」主義の私にとって、これは 重大な欠点となってしまいます。使い勝手が、とてもソフトにでき あがっているのに、開発環境がハードとはねえ、わたしにとっては 「泣き」です。TRON で Java あたりが動けば最高、と思うのです が、、、頑張れ国産 OS!!
わたしは「究極のゲーム」とも言えるプログラミングが面白くて ゲームを殆どやりませんが、おそらくゲームの分野だけは日本が進 んでいるのではないかと想像しています。「遊び心のあるところに 良い仕事がある」からです。 日本のまじめ社会では「仕事に遊びを持ち込むとはケシカラン」 という考えがあります。これは考え直さねばなりません。誰が面白 くもない仕事なぞに能率を上げるもんですか。面白いと思ってやる 仕事はどんどんはかどりますが、イヤイヤやる仕事の能率が上がる ワケがありません。
私が仕事場にコンピュータを持ち込んだのは1979年のとこで したが、元はと言えば建築方面に進みたかったのに開業医の長男に 生まれたばかりに後を継ぐことになり、おまけに父が病気で倒れた ものですから早く開業することになり、仕事がイヤでイヤで仕方が ありませんでした。そのうち「そうだ仕事場に面白いモノを持ち込 んでしまえ」と発想の転換をしたのがきっかけのひとつでした。 創業期の Apple 社内などはとても楽しい雰囲気のようでした し、メデイアラボなどでは研究所の中に観葉植物はもちろん犬がう ろついていたり、魚の風船が天井を泳いでいたりと、うらやましい 限りです。仕事場はこうでなくっちゃと思います。創業期の ASCII 社内でも、マシーンの横に素敵な女性のヌード写真が貼って あって、「サワるな」なんて書いてあったっけ。
私の仕事場は、常時インターネットに繋がった大好きなコン ピュータで仕事ができること、診察室に私の大好きな南の島の海岸 の大きなカラー写真のパネル(喫茶店を閉店するという患者さんか らプレゼントされたもの)が置いてあることくらいでしょうか。 院内に BGM が流れているのも、始めた1972年頃には珍し かったのですが、今ではどうということもなくなりましたね(BGM の流れる手術室で緊急帝王切開を行いながら、応援のドクターか ら「おう、キャバレーでオペしてるみたいだな」などと言われたも のです)。
ここで私のいう「遊び」とは、単になまけてダラダラしているこ ととは全然違います。「何か楽しいことに興味を持って、一生懸命 やること」を言います。対象はどんなくだらないことでも構わない と思います。最近の若者は仕事場での「遊び心」については余り心 配する必要はなさそうですが、ややもすると「ダラダラ」の方も多 いような気がするのはちょっと思い過ごしでしょうか。
自然界がなぜわざとムダあるいは不完全と思えることをしている のか、私のつたない頭にひとつ思い付くことがあります。 普段は不完全と思われていたものが、天変地異の際には逆に生き 残る可能性があったりするのかも知れません。偉大な自然界にでさ えも、未来予測をして万全を期するなどは不可能なのかも知れませ ん。それよりは、幾つかの手持ちを持っていて、普段はムダであっ ても何かの時にそれが威力を発揮するというような仕組みを考えて いるのかも知れません。
太古の昔、地球上を闊歩していた恐竜が突然絶滅してしまったと 考えられています。それまでは「社会のゴミ」でしかなかった(?) 哺乳類が生き残り、今の全盛へと繋がってきたのでしょう。 すなわち「完全なことを望むなら、不完全であるべきなのかも知 れない」と思い当たるわけです。「不純物の存在」には意味がある のです。
コンピュータとはまったく関係ない話ですが、現在私の医師会で は老朽化した医師会館を建て直そうというプロジェクトが進んでい ます。私はその小委員長をしているのですが、委員会で4年もの長 い検討を経てようやく地上4階建てのプランが煮詰まってきまし た。ところが「総会などで大勢集まるのは年に数えるほどしかな い。ムダなスペースに金をかけることはない。最上階の大会議室の フロアーは削除して3階にしろ」という意見があります。
「そのスペースは将来予測できない事業が発生した時、どのよう にでも対応できるための余裕のスペースなのだから、仕上げの仕様 など質を落としてでもスペースは確保すべき」と説得しているので すが、なかなかわかってもらえない会員がいて閉口しています。 検討を始めた頃「医師会の今後十年のプランを予測すべき」など という意見もあって、実際には「十年後どうなっているかを予測す ることは不可能に近い」ということで「どんな不測の事態にも対応 できるようなプランこそ大切」「短期的ではなく、長い目でみてお 金のかからない建築を」という考えでまとまってきたプランです。 後で融通のきかない建物を建てることこそ、大変なムダと私は考 えているのですが、、、
「見かけ上のムダ」と「本当のムダ」とを見分けることはなかな か難しいことです。 現代の日本では、不揃いの人参や大根は商品価値がないとして捨 てられてしまいます。最近の日本人が何ごとにも完璧を望むのは間 違いではないかという気がします。
かつて、完全を望んでも完全にはほど遠かった時代、それは意味 があったと思いますが、かなり完璧に近いことを行えるようになっ た現代、さらに完全を求めることは、むしろ大きな不完全を招くこ とになる、ということに気づくべきと思います。 昔の軍隊用語に「概ねよろし」という言葉があったと読んだこと があります。「ほどほどに完全になればそれでよし」と、他のこと に目を向けるべきではないでしょうか。