中学受験では、慶応普通部、慶応中等部、麻布学園中学の3つを受けました。 父が慶応卒で慶応に入れたかったのでしょう。 結局、慶応は両方とも落ちて、麻布に入りました。 いずれの受験日にもかなり雪が降ることが多く、付き添いの母には大変苦労をかけました。 当時は東京にもよく大雪が積もったのです。 あれは確か慶応普通部の受験が日吉であった時です。 前の晩から大雪で、 その朝、父が車で武蔵小山駅まで送ってくれました(家から駅まで徒歩7分の距離)。 ところが深い雪で都道26号線を2/3ほど行ったところで車がスタックしてしまいました。 そこからは母と歩いて駅まで行きましたが、 父は朝の診療に間に合ったのでしょうか。
1954年春、麻布学園中学に入学しました。 校庭に満開の桜や、 学園専任の洋服屋で作った真新しい制服や学生帽の臭いなど今でも思い出されます。 麻布の制服は紺か黒で、黒いボタンが特徴です。 これは開成高校とともに海軍の軍服の影響と聞いています。 入学した当時の印象としては、 同級生の多くが整った顔立ちときちんとした態度の いわゆる良家の子弟という感じでした。 地元区立小学校に比べ、ちょっとすました生徒が多かったと思います。 私が卒業して大分経ってから麻布も学園紛争で大揺れし、 現在は制服はなくなり生徒は T シャツやジーンズ、 茶髪で通っているようです。 麻布のイメージも随分大きく様変わりしたものです。
一年生が始まって最初の自己紹介の時、 私が数ヶ月通っていた大田区の道塚小学校で同級だった 太田君というのが居ることを知りました。 奇遇というものはあるものですね。 小学校1年新学期数ヶ月間の同級ですので、 双方とも相手のことは記憶していませんでした。 そんなことでしばらく仲良くしていましたが、 そのうちクラスが別になってしまいました。
当時まだ都内には都電(路面電車)が走っていまして、 私は平塚橋から品川駅までバス、 品川駅前の停留所から「四谷三丁目行き」の都電に乗って「赤十字病院下」で降り、 坂を上がって学校へ通いました。 麻布の周囲には、 順心女子学園、東京女学館、東洋英和などの女学校がありました。 軍歌をもじった「東洋英和のためならば〜」などという替え歌も歌われていましたが、 残念ながら私はまったくそのようなチャンスはありませんでした (現在の家内はその頃小学生で 麻布に住んでおり、 私が時々立ち読みした古川橋の本屋近くで泥だらけになって遊んでいたそうで、 後に東洋英和を卒業。どこかですれ違っていたかも知れません)。
中学1年の遠足は大山でした。 霧のかかったような天候でしたが、茶店で休んでいると「おい、麻布の生徒が遭難したそうだぞ」という話が飛び交いました。 中学2年生は相模湖へ行っていたのですが、 遊覧船が定員オーバーで冷たい相模湖へ沈み、 22名が亡くなった有名な「相模湖事件」が発生したのです。 もし1年違いで私が行っていたなら、 きっと遊覧船には乗っていたでしょうし泳げませんから、 ほぼ確実に亡くなった組に入っていたことでしょう。
ただでさえ近場にしか行かなかった麻布の遠足は、 それ以来なくなってしまいました。 その教訓でしょう、生徒は全員泳げる様にと夏休みもプールで水泳の特訓が行われるようになりました。 暑い夏の日、下駄をはいて都電に乗り学校へ着くと、 校庭の塀ぞい一列にならんで フンドシを締めプールに入りました。 特訓の割には、 私は溺れかけフンドシを掴んで引き上げられた記憶が一度ある位で、 とうとうまともに泳げるようになりませんでした。 それほど運動が苦手だったのです。
多少泳げるようになったのは、大学に入ってからのこと。 誰かに習ったということではなく独習でした。馬術部に入って自信がつき、性格も積極的になったためと思います。中学・高校の頃は足の届かない水で泳ぐことが怖かったのですが、大学に入り何事にも自信がつくとともに恐怖感も消えていったのです。
麻布で学んだお陰で身に付いたものがいくつかあります。 ひとつは「姿勢」。 安楽先生という体育の先生がいて「行進」をよくやらされました。 軍隊式に4列縦隊になって行進します。 縦隊をくずさずそのまま直角に曲がったり、 停止して回れ右などやりました。 卒業50年以上になっても同窓会で見る麻布の卒業生は皆 姿勢が良いですが、 これも安楽先生の「行進」のお陰と思っています。 卒業してから、大きな会社のエリートになった人間も多いので、 彼らもこれには感謝しているのではないでしょうか。
二つ目は麻布の「自由で延び延びと個性を育てる」教育方針です。 具体的に、どこがどうとは言えないのですが、 とにかく学校からうるさい制約は余り無く、 それでいて生徒は麻布の生徒としての誇りを忘れることなく 行動していました。良き時代なんですかね。 それだけ家庭教育がしっかりしていたと言えるのかも知れません。
国語の中畑先生が担任の時でしたが、丁度大雪の頃で授業をやめにして 近くの有栖川公園へ雪合戦に行ったのは良き思い出です。 誰かが国語の乙骨先生が声楽が上手なのを知り、 その先生の授業になると「歌、うたー」などと皆ではやし立て、 歌をうたってもらって授業を終わらせたりもしました。 麻布にはこんな自由な雰囲気がありました。
成績の方も(これは中学から大学まで一貫してですが) 今一つというところでした(そもそも、学校の勉強というやつが大嫌いでしたから)。 しかし、こうして考えてみると麻布時代に培われたものが 現在の私の基本を作っていると言えるのでしょう。
優秀な生徒に囲まれていたためか、 私は小学校時代に比べ中学高校時代は、 どちらかと言うと引っ込み思案で目立たない陰の薄い存在でした。 ある朝、二の橋から他の生徒と一緒に登校していると、 後ろから私の名前を呼んでいる父の声が聞こえます。 私は恥ずかしいので「いいよ、いいよ」と言いながら振り向きもせず、 歩いて行こうとしました。 私が忘れた習字の道具を届けに、 わざわざ父が車で追っかけてきてくれたのです。
帰宅してから父は「忘れ物を渡そうとするのに、 克洋のやつ、いいよ、いいよ、と言って行こうとするもんだ」 と言っていました。 後から考えると、よく同じような格好をした大勢の生徒の行列の後ろ姿から、 私を見つけたものだと思います。 父には申し訳ないことをしました。 それにしても、 迷子になった飼い犬を見つけた時といい、 この時といい、父の勘の鋭さはたいしたものです(父は戌年です)。 赤十字病院下から通うことが多かったのに、 なぜこの時は二の橋からとわかったのでしょうか。
今の私を知る人からは考えられないことだろうと思いますが、 当時はこのように恥ずかしがりやの引っ込み思案だったのです。 また同時に、自分に自信がなかったため依存心も強かったと思います。 自分に自信を持ち独立心や積極性を身につけたのは、 大学へ入り馬術部生活を送るようになってからのことです。
麻布の生徒は、教師にあだ名をつけるのが非常に上手でした。 松田先生は「松田ランプ」。禿げたラッキョウ頭から容易に想像がつくものです。 「フンドシ」という先生は これまたかなりのお年の先生でした。 針金のように痩せた上体をふんぞり返って、両肘を張り、ガニ股で歩く姿は、 なるほどと思わせるものでした。 「オチン」という怖い先生がいましたが、この言われには2説あります。 1説目は、いつも朝の登校時に生徒の服装をチェックするため 「校門(コウモン)のそばに立っている」からだそうです。 2説目は、この先生の息子が落第しそうになった時、 「フンドシ」がかばったからだそうです(いずれも、ちょっと下ネタ)。
ある時、友達をからかって同級生が黒板に「不居不打」と書きました。 からかわれた同級生は「オランウータン」というあだ名だったのですが、 黒板の文字は漢文風に返り点を打ち「居らん打たん」と読みます。 われわれより前の学年で「フランスパン」事件というのがあったそうです。 「フランスパン」とは一筆書きでハートのマークのような形を書くのですが、 筆の終わるところが内側にクルッとカールします (現在の NTT のロゴマークがまさにフランスパン)。 同級生に前髪がそんな形の生徒がいたのかも知れません。 これが学校で大流行になってしまい、 あらゆる所にその悪戯書きがされたそうです。 通学路の小石を蹴飛ばすと、 その小石にまで書いてあったとか。 麻布の周りには大使館が多いのですが、 大使館の黒塗りの車にその悪戯書きを書いたやつがいて、 大使館から怒鳴り込まれ終焉を見たと聞きました。
中学時代に凝っていたのは鉄道模型でした。 通学の途中都電の魚藍坂下交差点に「カツミ模型店」というのがあって、 鉄道模型の好きな友達と眺めたりしました。 自分でも HOゲージの模型列車を作り走らせていました。 カツミ模型店は今ではなくなってしまいましたが、 環状6号線と目黒通りの交差する大鳥神社交差点に「カツミ模型店」があります。 きっとあそこへ移転したんでしょうね。一度訪問してみようと思いつつ、まだ訪れたことはありません。
休み時間になると、 屋上でテニポン(屋上にチョークで田の字を書いて、 ダブルスで軟球を掌で打ち合う)をしたり、 野球などをやりました。 私は球技が特に苦手でした(今でもそうです)。 3階屋上でテニポンをやっていてボールが下へ落ちてしまうと、 落とした人間が取りに行って屋上まで投げ上げるのですが、 私には真上に投げ上げること自体が難しく、 たまたま投げられても屋上までは届かず馬鹿にされましたっけ。 教室内では昼休みに詰め将棋なども流行っていましたね。
中学2年の頃、父が購入しておいた隣地に本格的な自宅を建てました。 木造モルタル塗りの2階です。これが建つまで5年ほど、 ここは私や弟が土に穴を掘ったりした遊び場でした。
夕方大工さんが帰ってから、 柱と梁だけの建築現場を父と一緒に見て周るのは楽しみなことでした。 それまではまさに職住一緒で、 終戦直後使っていた和室の他には両親の寝室とわれわれ兄弟の部屋しか ありませんでしたが、今度はそれぞれが個室を持てるようになりました。 私の代になって等価交換でマンションにするまで、 27年間この家で暮らすことになります。