慈恵医大に入学すると、部活動へ勧誘のための説明会がありました。 新橋校の古びてホコリくさい階段教室でした。 残念ながら体操部はありません。色々な部の説明を聞いた後、馬術部に入ることに決めました。 元々動物が好きだったことが馬術部を選んだ理由ですが、 正直なところ馬術部の毛利主将の説明の中で、 女子への勧誘があったことも後押しをしたと思います (結局入ってみると、馬術部に女子は一人もいなかったのですが)。
ここから私の人生の中でも絶好調の青春時代・人生ピークの時期が始まります。慈恵医大卒業ではなく、慈恵医大馬術部卒業と称するほど、馬術部生活に没頭しました。
毛利主将に入部の意思を伝えると、 参宮橋にある東京乗馬クラブでの早朝練習の日時を書いたメモを渡されました。 その朝、初めて東京乗馬へ行き階段状の観覧席に座っていると、 ほどなくリーゼントスタイルの毛利さんがやってきました。 練習が始まり、生まれて初めて馬にまたがります。 器械体操をやっていたので、落馬への恐怖心はまったくありませんでした。 「小公子」の主人公が初めて馬にまたがった時、 速足でも姿勢がピンと伸びていて褒められた話を思い出し、 姿勢に気をつけた記憶があります。
慈恵馬術部は部員が2,3名ほどで、試合では選手数が足りず、殆ど馬に載ったこともないラグビー部やサッカー部の部員を調達し試合に出る始末でしたが、予科ができ私達の学年と本科からの学生が入ることにより、ようやく部としての体裁を整えていくことになります。
東京乗馬クラブでは乗馬クラブの馬を借りて練習をしていましたが、 その他に馬事公苑と千歳船橋の「清風会」村上乗馬に、 4医大(慶応、東医、日医、慈恵)共有馬を繋留していました。 馬事公苑の馬は「春風」という満点馬でしたが、 千歳船橋の馬は4本の足のうち3本が悪い「初春」という老馬でした。
春風に学部1年の密田さんと乗りに行ったことがあります。 密田さんは中谷さんとともに慈恵高校(数年間の短期間でなくなったよし)の馬術部出身で 馬には熟練していましたが、 久しぶりに馬に接する(密田さんもこの年、学部1年へ入学したばかり。 受験のため乗馬のブランクがあった) ということで、馬房へ入ろうとしたところ、 春風がいきなり尻を向けてきて危うく蹴られそうになり、「以前なら、馬に気取られる前にスッと首のそばに寄れたのになあ、、」と嘆いていました。
馬事公苑から千歳船橋への移動のため、 OBの久富先生のバイクの後に乗せてもらったことがあります。 久富先生は黒い革ジャンにサングラスをかけたスタイルで バイクに跨がって現れ、毛利さんに暴走族などと呼ばれていました。 久富先生にはバイクによる前肢旋回、後肢旋回を見せてもらったり、 後日投げ縄を教わったりしました。 久富先生は眼科講師で時々学生の講義も受け持っていました。 その授業で、中谷さんが「隅角とは何ですか」と聞かれ、 「眼の隅のことです」と(正解を)答えると、 久富先生に「隅角とは馬場の隅のことを言います」と切り返されたそうです。
千歳船橋の練習の帰り、 もう日の暮れた頃、 毛利さんによく軽く飲みに連れて行ってもらいました。 縄暖簾をくぐったのもこれが最初です。 カウンターに座って、土方風の隣のおっちゃんと 気軽に話をする毛利さんには、人付き合いというものを教えてもらいました。
毛利さんに教わり、今でも忘れない言葉があります。 「大橋なあ、他人を褒めることはあっても、 本人の居ないところで決してそいつの悪口を言っちゃいけないぞ。 褒められた噂は本人に届いても良いが、 悪口を言われたことがわかれば良い気持ちはしないだろ」と。
夏休みに入り、秋田で夏合宿がありました。 この合宿は慈恵馬術部にとって 大きなターニングポイントとなります。 騎兵あがりの三浦七郎教官との 初めての出会いだったのです。 三浦教官に慈恵は大変可愛がってもらい、 お陰で私の卒業後に関東学生で準優勝を2回もするほど強くなります。 そして三浦教官が亡くなるまで、深いお付き合いが続きました。
この合宿は、秋田角館出身だった慶応馬術部の角田さんに紹介されたと聞いていますが、 この年 慈恵は初めてここで合宿をすることになりました。 場所は角館から少し離れた所でした。 当時はまだ東北の農家には曲がり屋があり、 馬を飼っていました。もう農耕に馬を使ってはいませんでしたが、馬を手放し難く堆肥をとっていたのだと思います。
自転車に乗って各自割り当てられた農家へ行き、 馬に鞍をつけ練習場に集まり、練習が終わると畦道を馬に乗って戻り、 馬の手入れをして自転車で合宿所へ帰るのです。 久しぶりの自転車で畦道を少しよろよろしたのだと思いますが、 対向してきた農家の人のバイクが田んぼへ落ちてしまったことがあります。 農家の人は後で弁償を要求して合宿所へ来ました。 原瀬主将がカバーしてくれたのを覚えています。
合宿所はその地区の豪農の家だったのだろうと思います。 夕食は広い日本間に長いお膳が並びました。 通常、体育会系の合宿でアルコールは御法度と思いますが、 初日のお膳の真ん中にドーンと一升瓶が置いてあります。 落馬をした部員へ、 三浦教官から「落馬祝いだ、まあ一杯のめ」の言葉。 私は落馬はしなかったのですが、 その後皆に酒がふるまわれました。 酒好きの毛利さんや原瀬さんは大喜びだったようですが、 私が生まれて初めてアルコールを口にしたのは この時だったのです。まだ18歳でしたが、この時代はうるさくありませんでした。
「酒を飲むと身体が柔らかくなって乗馬に良い」 ということで、その後も、三浦教官の合宿に酒はつきものでした。 「酔ってはなるまい」と緊張していたお陰で、 アルコール初心者の割には余り平常と変わらなかったのですが、 後から考えれば両親ともアルコールには強い方なので 当然ということなのでしょうか。
翌朝早くトレーニングのため、全員で合宿所周囲の畦道を走りました。 途中に美味しいわき水があるということで、密田さんがヤカンを持って走っていましたっけ。 練習馬場はやや小高い岡の上を切り開いた空地で、 周りが林に囲まれ夕方になるとヤブ蚊に襲われました。
この夏合宿の時は(福島あたりからだったかも知れませんが)東北本線は蒸気機関車でした。 トンネルに入ると急いで窓を閉めないと、石炭の煙が車内に入ってきます。 この記憶は一回だけだったような気がするので、 その冬までの間に蒸気機関車が東北本線から姿を消したのではないかと思います。 このような時代の境目を何度も経験できたという意味で、 私の生きた時代は面白い時代だったのかも知れません。
東北本線が電化された後も、 夜行汽車で11時間をかけ秋田へ向かう際、 福島のあたりで停車中にカーン、カーンと作業員が汽車の車輪を ハンマーで叩き ひび割れがないかを点検する音、 踏切の警報機のカーン、カーン、カン、という音の通り過ぎるさま、 小さな川を渡り角館が近づいたことを知る様子など、 とても懐かしく思い出されます。 新幹線になって なくなったアナログの味でした。
三浦教官が「冬も合宿に来い」というので、暮れから正月にかけ合宿をしました。 当時部員が少なかったので、4人くらいの小合宿。当時、東北本線で角館までは11時間ほどかかりました。 年末とあって上野駅から乗車した列車は満席、ギッシリで立ったままで11時間。若かったなあと思います。 角館駅通りにある三浦先生の家の2階に泊まらせてもらいました。 2階から見下ろすと、しんしんと雪の降る駅通りをマフラーですっぽり頭を覆った女性達が、手押しの箱ソリを押して行き交っていました。 この箱ソリも、その1,2年後の冬には角館の街から姿を消したように思います。これも時代の境目の思い出のひとつ。
近くの映画館から、当時流行っていた井上ひろしの「雨に咲く花」の唄が1日中流れていましたっけ。元旦になると、三浦先生から「元旦だ、朝風呂に入れ」。風呂からでると居間の囲炉裏をかこみお銚子を傾けます。 その後練習にでるのですが、ほろ酔い機嫌で落馬する先輩も。落馬しても雪の積もった馬場は痛くもありませんし、服も汚れません。馬場にウイスキー瓶を持参した酒好きの先輩が、練習後ウイスキーに雪を入れ「オン・ザ・スノー」。
慈恵馬術部もようやく部としての体裁も整ってきたところで、自馬を持ちたいという機運がたかまり、三浦教官から馬をお世話頂きました。 黒毛で鼻筋に白い流星の小柄な馬、島影という名前でした。 毛利・原瀬・密田の三人が秋田から貨車に同乗し連れてきました。 寝藁の上に寝ながら、秋田で仕入れた一升瓶を抱き旅してきたそうです。 貨車の運行時間は不規則、駅で停車中なかなか動かないのでトイレに行ったところ、貨車が動き出しあわてたこともあったとか。 貨車の到着する当日、渋谷駅へ迎えに行きました。JR ホーム目黒寄りの端で待っていると、やってきた貨物列車の貨車から手を振っているのが見えました。 指差す方向によると貨車はホームからずっと離れた目黒寄りに着くようです。ホームを降りそちらへ迎えに行きました。 別の部員が駅員に馬の到着する場所を尋ねると「小包ですか」と云われたという笑い話もありました。
そこから馬運車で千歳船橋の清風会乗馬クラブへ移送。翌朝、馬を見に馬房へ行くと島影は疲れていたのと知らない環境で気が立っていたのでしょう、 いきなりガブリと肩を噛まれました。たいして深い傷でもありませんが、その傷は今でもうっすら肩に残っています。
それからは放課後、千歳船橋へ練習に行くのが日課となりました。冬休みになるとほとんどの部員は郷里へ帰ってしまい、東京在住は私だけ。 馬を定期的に運動させてやらねばならないので、私が行くしかありません。ところが櫻井さんという競馬あがりの馬丁がとても口うるさく、 何かと嫌みを言われます。それが嫌で嫌で仕方がなく、内心よほど弓矢で射てやりたいと思ったほどでしたが、 私しか行く人間がないということでイヤイヤ清風会に通ったものでした。 今になって思えば競馬の馬丁というのは口が悪く、意地悪するつもりでなくてもグサッとくるような言い方をしたりするものです。 私も馬の扱いに初心者でしたから色々言いたいことがあったと思いますし、 私もそのような人種に馴染んでいなかったのでした。
障害馬を作るのが名人の三浦先生の調教もあって、島影は小柄ながらよく障害を飛んでくれました。 清風会馬場で島影と乗馬クラブの馬を使って現役と OB の対抗練習試合をしました。 もう何年も馬に乗っていない OB が物凄い根性で馬を飛ばせてしまうのを見て、さすがと思ったものです。
初心者ばかりの慈恵にはこの位が丁度良いということで三浦教官が選んでくれたのだと思いますが、 ちょっと華奢な馬だったためか1年ほどで故障し使えなくなってしまいました。可哀想なことをしました。
当時は馬場の脇を小田急線ロマンスカーが鐘の音のような独特の音を響かせ走っていたのが懐かしい想い出ですが、 われわれが清風会を使わなくなってすぐ、その辺りを環状八号線が通るようになり清風会乗馬クラブは消滅しました。
国領にある予科から新橋の学部へ移りました。島影がいなくなり、練習は再び乗馬クラブの貸与馬を使うことになります。 朝6時頃までに参宮橋の東京乗馬倶楽部へ集まり、白い息をはきながら練習をしました。この頃から自家用車に乗ってくる上級生がでてきて、 練習が終わると新橋まで送ってもらうこともありました。
1962年、日本のモータリゼーションがこれから立ち上がろうという時代でした。私が予科の頃、慈恵本院前の広い敷地はガラガラでしたが、 その2,3年後にはいつも駐車で一杯の状態へと変わっていきます。これも私が眼にすることのできた時代の変り目の光景でした。
この時代、主な試合は夏の東日本医科学生総合体育大会と四医大戦だったと思います。前者は東日本の医科大学が回り持ちで競技場はその都度違いましたが、 後者はいつも皇居内のパレス乗馬クラブで行われてました。大手門を入ると、松の木の植わった広い敷地内を白いエプロン姿のおばさん達が掃除しています。 各地から奉仕で来ている人達と聞きました。 また陸上競技のトラックのような馬場を馬車が走っていました。何年に一回あるかどうかの公式行事のため、日頃から馬車の訓練をしているのです。
やがて古い木造の大きな建物が見えてきます。屋根付きのいわゆる「覆い馬場」。天井が覆われているので中は薄暗く、 馬場には砂の代わりにおが屑が敷き詰められていたと思います。 馬が走っても音があまりせず馬の蹄にも優しいためと思います。我々が練習や試合をするのはこの覆い馬場。 下手な医大生が馬に暴走されても覆い馬場なら、外に飛び出すこともなく比較的安全だからとのことだったようです。おが屑の馬場は静かでしたが、下手な騎手が馬を木造の壁にぶつけるとドカンと音がしたのを覚えています。
試合の数日前にここで練習をさせてもらえるのですが、パレス乗馬の教官は騎兵上がりの高名な先生。オリンピックに出た方もあったと思います。 白い髭を生やし恰幅の良い印南先生などが印象に残っています。歳はとっていても、いかにも元軍人の風格ある方々でした。
私が学部1年の時、高校時代から馬に乗りアバロン乗馬学校に自馬を持つ後藤が入ってきました。学部2年の年には東京オリンピックの馬術候補選手にもなった徳田が入ってきました。 これまで本当に選手として残る部員は私、杉浦、後藤と、各学年1人くらいだったのですが、 この年には徳田を含め女子を入れ7人もの部員が入り途端に部らしくなってきました。
三浦教官が新潟国体の馬術コーチとして新潟へ招かれたため、夏合宿にはわれわれも新潟へ行きました。 合宿所は新潟競馬場の中にありました。夜、酔っ払って外で騒いだ部員がおり、 翌朝宿舎の前に馬に乗った騎手が大勢たむろしこちらを睨んでいたことがありました。 自分達の世界である競馬場に大学生どもがやってきて我が物顔に酔って騒いだのがかなり癇にさわったのだろうと思います。 ヤクザの集団に囲まれているようで気味の悪い思いをしました。
走路の真ん中にある馬場はかなり砂が深かった印象があります。 ここで1メートル以上の高い障害を飛ばせてもらったのは私にとって良い想い出です。 練習は新潟国体に出る地元高校の選手達と合同で、彼らと仲良くなりました。 彼らの何人かは東京の大学へ入り馬術で活躍しました。 合宿所では朝になると競馬場のスタンドにある大きなトイレへ皆で行くのが恒例でしたが、 誰云うともなく「県立いくぞー」と。トイレット・ペーパーのロール持参のやつもいましたっけ。
終戦直後、かつて慈恵馬術部が強かった頃、慈恵も関東学生に加盟していたことを聞いていました。 部員も増え三浦教官の指導よろしきを得て慈恵も大分強くなってきたので、 関東学生に加盟することにしました。普通の大学とは練習時間や部員数などレベルがまったく違うので、 関東学生に加盟している医科大学は1,2校もなかったと思います。
関東学生の定期戦は馬事公苑で行われましたが、さすがにどこの大学も体力・気力・技術どれをとっても それまで経験してきた医科大学とはまったくレベルが違います。とても勉強になりました。 特に「気力」の面で得るところが大きかったように思います。試合前に馬事公苑の角馬場に整列し「飛び降り飛び乗り左右2回」というのだけは 私も得意で、他科大学の学生を尻目に一番で終了し「ハイっ」と手を挙げていました。高校時代鉄棒をやっていましたので。
OB になり20年ほどして学生の練習を見にゆくと、乗馬するのに踏み台を使っています。 「バカヤロー、踏み台なんか使わず飛び乗りしろ〜」と怒鳴ったものの、さて自分が乗馬する番になって得意の飛び乗りをしようとすると、 いくらジタバタしても身体を引き上げることができません。逆三角形だった上体は普通に戻り体重だけが増えたため。 その自分に対し無性に腹が立ちました。
私の在籍する頃は、関東学生に「参加することに意義がある」状態でしたが、 それから数年後の後輩たちは慶応や学習院など馬術界でトップレベルのチームと互角に戦い、 準決勝に2度も進んだのは医学部の歴史に残る快挙でした。
そろそろ自馬が欲しいなと。 たまたまそのような話を父にしたところ「お前のために積んでいた定期預金が満期になるので、それを使っても良いぞ」と。 25万円くらいだったかと思います。有り難く使わせてもらうことにして、私個人の馬ながら慈恵の自馬としての馬を購入することになりました。 早速三浦教官にお願いし世話して頂いた馬は「磯嵐」という名前の鼻筋にはっきりした白い流星の太めのがっちりした栗毛馬。 三浦先生も華奢な島影に懲り今度は馬車馬のようにがっちり丈夫な馬を選んでくれたのだと思います。
馬術部は馬の預託費や試合参加費その他、部員から集める部費だけではとても賄いきれません。 しかし私が入部した頃からずっとそうですが、OB に寄付をもらいに行くと 「出ると負けのお前たちに寄付なんかできるか」と一蹴されます。「練習して強くなるためには金がいるのに、チクショー」と内心何度思ってきたか知れません。 何としても自力で自馬を持ちたいと思ったのは、そんなところにもあったのです。
磯嵐は太い馬体に似合わず障害は良く飛んでくれる馬でした。気が強いながらなかなかヤンチャな馬で、慈恵馬術部の人気者になりました。 アバロン乗馬学校に置いてここで練習するようになったのですが、夜中に馬栓棒(馬房入り口を塞ぐ横木)を外し徘徊することがあるため、 馬栓棒は太い針金でギリギリに縛っておく必要がありました。 また馬添いが悪く他の馬が近づくと抜く手も見せず蹴るので、試合の時など尻尾に「蹴るので注意」の赤いリボンを結んでいました。 こんなことや意外と障害もよく飛ぶということで、関東学生の試合でも慈恵の馬は他大学からすぐ覚えられるようになりました。
当時 TV で、人間の言葉をしゃべる馬を主人公にした米国のドラマ「ミスター・エド」が放映されていました。 磯嵐のヤンチャな性格や口の動きなどエドに似ているということで、慈恵馬術部では磯嵐でなくエドと呼ばれるようになりました。
エドが入厩した丁度この頃、衝撃的なニュースがありました。東京乗馬倶楽部での朝練、クラブハウスで練習の準備をしていると、やってきた下級生の城が「大変なことが起こりましたよ」とご注進。その日午前4時頃、日米を衛星通信で繋ぎ初めてのテレビ生中継がありました。何とそこで伝えられたのはケネディ大統領暗殺というニュース。私の大好きなケネディが暗殺されるとは、とてもショックでした(後年、これも私の好きだった安倍元首相の暗殺も同様でした)。
蓼科に祖父の別荘がありました。大学に入った頃から夏には利用させてもらっていたのですが、 この年の夏には馬術部の連中を連れ学生だけで使わせてもらいました。 山を下りプール平の八百屋や肉屋で食料品を仕入れ自炊も楽しいものでした。 プール平には観光用の馬が何頭か繋いであります。ボサボサの毛の生えた道産子のような馬ですが、これを借りて野外騎乗したこともあります。 普通は馬方が手綱をひいてついてくるのですが「われわれ馬術部なので自分達だけで大丈夫」というと、 馬方が「走らせるなよ〜」「わかった、わかった」ということで別荘地のヤブの中に隊を組んで乗り入れます。誰も見ていない道路でちょっと走らせ、汗を乾かしてから知らん顔して返しに行ったこともあります。 まだ高校時代の器械体操の名残があって、馬の鞍の上で逆立ちした写真もありましたっけ。
蓼科も海抜が低いところはそう涼しくもないのですが、山道を上ってゆくとすうーっと涼しくなってきます。 別荘は高いところにあるので夏とはいえ夜になると結構冷えるので、炬燵を囲んで話し込むのも楽しいものでした。 ガラス窓の外に雪の降っているような錯覚までしました。結局そのままうたた寝してしまい、朝になると炬燵に足をいれ放射状に全員討ち死にしていました。 女の子も数人いましたが、慈恵の馬術部は紳士的で上級生の統率もあり、危険な感じはまったくありませんでした。
学部3年になると主将の役割が回ってきました。入部した頃は部の体裁を成さず「出ると負け」の馬術部でしたが、 この頃になると慈恵も自信満々の馬術部となってきました。
この夏の合宿は、いつもの秋田県角館の他、アバロン乗馬学校の会員さんの紹介で仙台でも実施。 その後の東日本医科学生総合体育大会を含め約1ヶ月の長期遠征となり、 帰ってくるとシャツの跡だけ残して顔や腕は真っ黒に土方焼けしていました。
印象に残るのは仙台の合宿。痩せて細い山羊のような馬(目も赤かったような? これには山羊馬というあだ名がつきました)、 合宿所で朝目を覚ますと目の前の広場に白馬が放馬していたり、練習後馬を川へ連れて行って川の中で洗ったり、またとない経験をしました。
長い合宿を終え、夕方 試合のある盛岡へ着くと、盆地のためか猛烈に暑い。 皆で夕食に外へ出ますが「どうせ暑いんだから、やけくそで焼き肉を食べよう」ということになりました。 部員は誰も食欲旺盛、網に乗せた肉の色がちょっとでも変わればすぐ取らないと、先に誰かの箸にさらわれる。これ以来、焼き肉はちょっと表面の色が変われば食べる習慣がつきました。
東医体の試合は岩手医大が主管で、岩手医大の馬場で行われました。 この試合には印象に残る難馬がでました。まず、選手の乗った馬の顔にすっぽり学生服を被せて目隠ししスタートへ尻を向けさせます。 ここでサッと学生服をとり、騎手はおもむろに馬を後退させ尻からスタートを切るのです。そうでないとこの馬はゴネてスタートも切らない。 その試合にあたって馬配(誰をどの馬に乗せるか)を決めるのですが、慈恵はこの馬は捨て馬ということで、 もっとも初心者の中川さんを当てました。相手の選手はこの馬でスタートは切ったものの、反抗を続けひとつも障害を飛ばず失権。 ところが、中川さんはというと「あれ、あれ?」、トコトコと第一障害の竹柵へ向かって行き、何と飛んでしまったではないですか。 その後は反抗で失権ですが、この試合はこれで慈恵の勝ち。 オリンピック候補だった徳田には別の意味で難馬があてがわれました。 経路の途中で馬がゴネていると、徳田は蹄跡に馬をとめ片足の長靴をラチ(馬場の柵)に乗せ腕時計を眺めるだけ。 後で「何であんなキザなことやってたんだ」と尋ねると「ラチに擦り付けられて長靴に傷を付けられないようにタイムオーバーを待っていた」との返事。 徳田もその後次第に慈恵の馬術部に馴染んでまともになっていきますが、当時は結構キザでヘンな人でした。
長期の合宿をこなしてきた慈恵は勝気満々だったのですが、最後は 非常に惜しいところで優勝を岩手医大に奪われる。ここで勝てば数十年ぶりの優勝だったのですが、、
東医体の試合の終了後、東北地方の OB 数名が宿舎の旅館で「ご苦労様」の宴会を開いてくれました。 翌朝、旅館の会計を済ませようとすると、長期遠征のため皆の金を出し合っても足りないことがわかり、 苦し紛れに OB の本郷先輩にツケて帰ってきてしまいました。今だに本当に申し訳ないことをしたと思っています。 本郷先輩からはその後お叱りの言葉もありませんでした。後輩学生の仕業にも目をつぶってくれたのでしょう。 剛毅な先輩でした。
秋田県角館での夏合宿
合宿から帰ると大橋医院駐車場に地味なグレーの小型車が停まっていました。 父に買ってもらったトヨタの大衆車 Publica。 学生の分際で車を持つのは自分でも贅沢と思ったので、ヒーターもラジオもないスタンダード車でしたが、 どうしてもスポーティーな車に乗りたかったので、黒いビニールのバケットシート、フロアシフトのギア、シート・ベルトだけは特注しました。 馬術部の後藤の親父さんが近くのトヨタ販売店の社長で、そこでカスタマイズし購入しました。
車は手に入ったものの、高校時代に免許取得して以来5年以上のペーパードライバー。 日曜の馬術部練習の前に、朝早く空いた道を多摩川のアバロン乗馬学校まで予行演習したりしたものです。 新橋の大学にもこれで通うようになりましたが、到着すると緊張で両掌が汗びっしょり。 帰りもシートベルトをガチャリと締め「いざ行くぞ」と大きく息を吸ってから出発したものです。 そのように内心おっかなびっくりの運転でしたが、この後の別項で述べるようにその秋の東京オリンピック総合馬術観戦のため、 軽井沢まで遠出することによりようやく運転にも自信がついてきました。
700CC 空冷水平対向2気筒エンジンの独特のエンジン音は今でも懐かしい。 太幅低圧タイヤを履いた軽量車で、砂利道の急坂でもジープのように果敢に登って行けました。 ヒーターも無い車でしたが、空冷エンジンで温まった空気が運転席の足元に入ってきて結構冬も快適でしたが、 冬はラジエーターの前にダンボール板でマスクをしないと、オーバークールで咳き込んでしまう癖がありました。 家族で蓼科高原へ行く時、両親と弟は父のヒルマンで、私はパブリカで後からついて行ったことがあります。 笛吹川のあたりの長い直線を快調に飛ばすのをみて、父から「パブリカも結構スピードが出るな」と云われました。
ボンネットを開けると中には小さなエンジンがちんまり鎮座し、周囲はかなり余裕がありました。 キャブレターの調整その他、よく自分でいじったものですが、 後年ホンダ・コンチェルトのボンネットを開けると、銀色に輝くエンジンや補機類がびっしりエンジンルームを埋めているのを見て 「ああ、これは手をつけるものではないな」という思いを抱いたものです。
シンプル・イズ・ベスト、パブリカは本当に名車で今でも手元に置いて乗り回したい車です。 スバル360のように現在でも世の中に名前が残ってもよい車だったのに残念。ただ、パブリカのエンジンを乗せた流線型の軽スポーツカー、 トヨタ800はその特異なスタイルや「ヨタハチ」の愛称でレースでの活躍など現在でも世に記憶をとどめています。
岡崎市の OB 荻須先生の招きで、愛知学芸大学との対抗戦のため岡崎へ遠征しました。 この頃は車を持っている部員も増え車を3台ほど連ねて行ったのですが、 まだ東名高速は未完成で東海道を行かねばなりません。 パブリカでは心もとなく父のスカイライン2000GTを借りました。 一車線の東海道に列車のように連なる陸送の大型トラックを1台ずつ苦労しながら抜いて行きます。 2000GT はパワーがあるのですが、それでも密集隊形の陸送の列を1台ずつ抜いていくのは大変で、 休憩所で一休みすると苦労して抜いた陸送トラックがどんどん先へ行ってしまうのには無念な思いをしました。 夜明け前に岡崎乗馬クラブの馬場へ到着。明日の試合に備え用意されていた天幕の下のテーブル上で仮眠。
試合には金沢大学の馬術部も参加し、なごやかに行われました。荻須先生には私が予科1年の秋にもお招き頂き、 この時は荻須医院の病室に泊めて頂きました。当時中学生ぐらいの坊主刈りの息子さんがいたのですが、 後年彼が昭和大学に入り昭和大学に馬術部を創設したと聞いています。また、後年コンピュータで仲良くなった加藤産婦人科病院も岡崎でした。 岡崎には2度行ったのですが、いつも試合がメインで市内見学をしたことがなかったのは残念です。
帰りも車を連ね一路東京へ。箱根の松林に車を入れ皆で車中の仮眠。 部員を降ろして帰宅途中 早朝の交差点、対向車線の先頭は路線バスだけなので信号が青に変わると同時にその前を右折してしまおうと ハンドルを右に切りアクセルをふかしました。 パワーの余る2000GTは後輪が空転し派手にドリフトしてしまい、恥ずかしい思いをしました。若気の至りでした。
この前年頃から慈恵は練習着として黒の T シャツを揃えました。 慈恵の近くの帽子屋で見つけたナチス将校の軍帽に似た格好よい船員帽もそろえました。 このような服装で試合でも強そうなチームになりましたが、関東学生への加盟や三浦先生のお陰で実力も上がりました。 この年の東医体馬術競技は馬事公苑で行われ、ついに東医体で念願の優勝を飾ることができました。 馬事公苑の桜の下で飛び上がって喜んでいる部員の写真が目に浮かびます。
試合を終えアバロン乗馬学校へ帰って武宮校長へ優勝を報告すると、 優勝カップにビールを注いでくれました。その冷たいビールの美味しかったこと。 武宮校長は普段われわれにこのようなことをしたことのない人だったので、 これもとても嬉しい想い出です。
この年の春、3年下に中途入学の新入女子部員が入ってきました。敬虔なクリスチャンで Y さんという大輪の牡丹のような美人。 1年下の杉浦が彼女と私をくっつけようと何かと世話をやいたもので、私もついその気になってしまいました。 彼女の家が馬場への経路の途中だったので、私が車でいつも彼女を拾っていくことになりました。 日曜の練習後は、朝の礼拝のため彼女を田園調布教会まで送って行くこともよくありました。 角館の夏合宿では彼女が途中で帰京するというので、杉浦が「大橋さん、東京まで送っていってあげてください」。 彼女とは二人で湘南海岸へドライブに行ったり映画を見に行ったりしました。映画「サウンドオブミュージック」はその想い出の映画。
その秋も終わろうとする頃、忘れもしないとてもお天気のよい11月初旬の午後でした。自宅2階で午後の明るい日差しを浴びながらデートへ誘いの電話をしたところ、唐突に「もう、そのようなお付き合いは辞めたい」との言葉に愕然としました。 「何故?」と尋ねると「すでに将来を約束した彼氏がいる」とのこと。内心「そんな馬鹿な。それなら何故いままで付き合ったりしたんだ。 もっと早く云わなかったんだ」と思いました。納得いかずさらに問い詰めると「親しい神父様の前で彼を交え話がしたい」とのこと。
指定された日の授業が終わる時刻、彼と彼女を私の車に乗せ、四谷にある上智大学構内のセントイグナチオ教会へ。 神父の口からは「この二人は神が巡り合わせ将来を約束したもの」との言葉。 彼と彼女は高校が一緒で慈恵に入学したところ偶然また一緒になり、それが縁で将来の約束を交わしたのだとか。 「大橋さんの心には、これからいつまでも私が居るから良いでしょう」との彼女の言葉には違和感を覚えても、何も言い返す気にもなりませんでした。 もうどうでも良くなって帰ろうとすると、彼がギターを出してきて「一曲聴かせたい」とのこと。 後から考えれば失恋した人間に対しこんな残酷なことはないのですが、私も人が良いですねえ、 彼の弾く「禁じられた遊び」をうつ向いて、じっと耐えながら聴いていたのでした。
風の便りに聞いたところでは、二人はその後結婚したものの喧嘩を繰り返し、結局別れてしまったとか。 人は悪くはないのですが他人に対する思いやりの育っていなかった二人、「やはり」と思ったものです。 「彼女と一緒にならなくて良かった」とは思いますが、忘れられないものではあります。 結局、彼女はその後ずっと独身で過ごすことになります。
この経験は私の心に消えない傷となって残り、その後の人生に影を落とすことになるのでした。 その一つがクリスチャンを信じなくなったこと。日曜日ごとに教会に通う敬虔なクリスチャンなのに、他人への心配りがなかったアンバランス。 あの時同席した神父にしてもそうです。あの席で彼のギターは止めるべきではなかったのか。 クリスチャンの言うことと、やることのまったくの不一致。これは歴史上でも、外国侵略の先駆けをつとめた宣教師の問題など色々ありますね。
セントイグナチオ教会へ行ったのは忘れもしない11月11日でしたが、 その後しばらくはショック冷めやらぬ状態。このような時は独りで居るより、銀座や新宿などの雑踏の中を歩く方が気が静まるのでした(このような思いを後年もう一度することになります。最初の家内が突然の脳腫瘍で余命1年余と知った時でした)。この年はそのようにしてあっという間に年の瀬に突入しました。
[ 後日談 ] 何年か経って後輩の杉浦の結婚式に呼ばれ、新婦を見てびっくり。 私の初恋の人 Y さんにそっくりだったのです。