母の美穂は、眼科開業医である籾木穂積の長女として生まれました。 18才くらいで父の元へ嫁いだのだと思います。 父の兄が慈恵医大の眼科医局だったので、 そんな関係だったのだろうと想像しています。
母は女優の八千草薫と同じタイプの 小柄な日本美人でした。 性格はとても控えめというかやや消極的なところがあり、 父がよく一緒に外へ出掛けようとしても家へこもりがちなところがありました。 夫婦喧嘩は見たことがありませんが、 唯一意見が食い違うことがあったのはこの辺りだったと思います。
昭和19年だったと思いますが父は応召され、 軍医として南支那(現在の中国)へ派遣されました。 母はまだ二十歳そこそこで母も父も大変つらかったと思いますが、 当時は誰もが同じ思いをした時代でした。
父が出征してしまった昭和20年4月1日に弟の正洋が生まれました。 戦争中は戦災を免れるため、母の実家の籾木一家とともに神奈川県の鵠沼へ疎開しました。 そのうち米軍の艦砲射撃が始まるという噂があり、埼玉県の下忍へ疎開しました。 疎開先では野本さんという農家へ間借りし、祖父、祖母や母達は大分苦労したと思います。
まだ生まれて間も無い乳飲み子である弟を抱えて、 母は栄養失調のため母乳がなかなか出ず 山羊の乳をもらって育てたそうです。弟は中学、高校の頃、片方の視力が出ず、 叔父である慈恵の大橋教授の外来に通って眼球に注射を受けたりしていました。 弟もよく我慢したと感心しますが、 その原因は乳児の頃の栄養失調によるものだろうという話でした。 そのハンディーを一生背負ってきた弟も、 そのため色々と苦労してきたと思います。
父が香港での捕虜生活を終えて復員し、ようやく疎開先から東京へ帰ることができました。 しかし父が生活基盤を整えるまでの間、 一家は母の実家である蒲田の籾木眼科へ身を寄せ、 私が小学校1年の秋に 現在の品川区に大橋産婦人科医院が完成しそちらへ移りました。
この頃、モンペ姿で雪かきをしている母の写真があります。 母もまだとても若かったので、昭和20年代のモノクロの青春映画 の一場面のようです。
産婦人科なので入院の産婦さんのため、食事を作らねばなりません。 お手伝いさんとともに母が毎日作っていました。 母からこれに関して一度も愚痴のようなものを聞いたことがありませんが、 これはかなり大変な仕事だったと思います。 そのために栄養士の資格をとったりもしていました。 母の努力の甲斐あって「大橋産婦人科は食事が美味しいので、 またお産はそちらで」という産婦さんが結構あったようです。 いまだに「大橋先生の所のお食事は美味しくてねえ」と言われる患者さんがいらっしゃいます。
私が中学に入ると給食はないので、毎朝弁当を作ってもらうようになりました。 私の3つ下には弟もいますので、 弟が大学へ入った時「ようやく、これでお弁当を作らなくても良くなるわ」 と母が言ったのを覚えています。 私には子供が5人もいますので、私の家内はもっと大変な思いをしたはずで 母にも家内にも感謝する次第です。
私が小学校の頃は池坊の先生に夜来て頂いて 職員とともに生け花を習っていました。 その頃、自宅は襖でしきっただけの八畳二間が居間・食堂・寝室を兼ねていました。 当時はテレビも何もありませんでしたから、 生け花の先生が来ている間、 父と私たち兄弟は隣の部屋でじっとしているしかありません。 そんなことで、 職員達と母が生け花を習っている間、 父は私と弟を映画館へ連れて行ってくれたものです。 武蔵小山にはプリンス座という洋画専門の映画館と、 大映という邦画専門の映画館がありました。 現在、前者は小山ブックストアなどの入るマンションに、 後者はメガネドラッグや紳士服の店の入るマンションになっています。
私が中学の頃からでしょうか、 親戚の紹介で洋裁の先生に来て頂いて、洋裁を習いはじめました。 こちらの方も最初は職員の希望者も一緒でしたが、 途中からは母だけだったように思います。 もともと外出は余り好きでない母でしたが、 特に父が倒れてから、 母はほとんど家から出ることがなくなりましたので、 自分の着る服はほとんど自分で作っていたと思います。 母の洋服はとても丁寧によくできていました。
1953年、私の中学校の受験の頃は東京も雪がよく降りました。 慶応普通部の受験に日吉へ行く日、 朝から大雪で父が車で武蔵小山駅へ送ってくれました。 ということは、その後「東洋一の長さ」と云われた武蔵小山商店街のアーケードはまだ作られていなかったのだと思います。
駅までの歩いて7分位の距離で雪のため車が溝にはまってエンコしてしまい、 母と歩いて目蒲線に乗りました。 日吉では、大雪の中受験が終わるまで待っていてくれました。 朝の外来診療をひかえて早く帰らねばならない父は、溝にはまったタイヤをあげるため通行人に手伝いを求めたが、助けてくれなかったと言っていました。
父が倒れた後は毎日が父の介護でした。 とても小柄な母に対し父はよい体格をしていましたので、 よく腰を痛めなかったと思います。 自分は力が無い ということを前提に身体を動かしていたのだろうと思います。
麻痺のため父の言葉は何を言っているのか 私にはよく聞き取れないことが多かったのですが、 さすが夫婦で母は「はい、はい」と良いながら対応していました。
最近ですと行政による色々な補助や援助がありますが、 当時はそのようなものはなく全て家族で行なっていました。 恵まれていたのは家業が診療所で、 婦長が父をマッサージしてくれたり、 リハビリのため散歩に連れ出してくれたりしたことです。
父は倒れて10年目に亡くなりましたが、その5年後に母も亡くなりました。疎開先や終戦直後の無理がたたってか、その頃リューマチを患ったのが元で、最後は心不全で慈恵医大の心臓内科に緊急入院し亡くなりました。
私と弟をはじめ母の兄弟3人が全員慈恵医大卒業生で、臨終のベッドサイドに5名もの卒業生がつきっきりだったためか、深夜になっても内科の教授がナースステーションに詰めておられたのは恐縮なことでした。心停止後、当直の先生が一生懸命に心マッサージをしてくれましたが、我々も医師ですのでもうそれ以上やっても効果のないことは判っており、叔父から「ありがとうございました。もう結構です」という言葉で母は鬼籍に入りました。
息を引き取る直前、母はカッと目を見開いた後亡くなりました。亡くなる前の神経反射だったのだろうと思いますが、医師として何度か臨終に立ち会ってきて初めてのことでした。
あちらで待っていた父と、仲良く幸せにやっているのだろうと思っています。